私の祖父も公務員で、母も公務員で、弟も公務員で、そして私も公務員である。勿論業種は違うのだが、基本的には集団で仕事をしているという点では共通している。
集団が協力することで成し遂げられる偉業というものはたくさんあった。河川の工事であったり、道路の整備であったり、時として侵略を防ぐこともあっただろう。
しかし集団が大きくなればなるほどに、そのコントロールというものは難しくなる。コントロールをするために、大組織は階層を設け、専門を基準としてツリー化し、縦横によく言えばシステム化、悪く言えば硬直した関係性の中に人々を押し込めることになった。
こうして、コントロールのためのシステムの中で人間はパーツに成り下がっていくのだ。
そしてパーツは摩耗する。この国が年間に2万人超も自殺者を出しているのはそういうことなのだと私は感じている。
私たちが目指す、自給自足というのは個々人ごとに形が違う。それぞれの関心とそれぞれの技量と、それぞれの熱量で、それぞれが満足する範囲で行えるものを目指している。
恐らく、集団で行う労働とは対照的なものになるだろう。もしかすると従来型の偉業と呼ばれるようなものは生まれないかもしれない。理不尽な大組織はいつも強力で、自由な個人は時として貧弱とも言われるだろう。
しかしながら、もしも今のこの世界や国家規模の集団が作り出したシステムが多くの人を殺すのならば、私たちは生き延びるために自由を目指してもよいと考えている。
道路を命を引き換えにひいていた人が自由になり、24時間電気を守っていた人が自由になる。そうなれば、これまで当たり前のように享受してきた偉業を失うことになるのかもしれない。失わなくても、規模を大きく縮小する時代が来るのかもしれない。
それでよいと私は考えるようになった。それもまた自由だからだ。従来の偉業を最後まで守るために戦うのも自由だ。偉業の陰に沈みたくないと、その恩恵からも負担からも逃れるもの自由だ。
私たちは選択する自由が、やがて世相を変えていくと考えている。少なくとも私は、偉業をなす時以外はパーツに成り下がるつもりはなく、基本的には自己と他者の良いところを認め合いながら、それぞれが持つスキルをお互いに供用しながら生きていく方を選んだ。
思考と迷いと決断の先にある私たちの選択こそが正義なのだ。
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