歴史的な事実として、新しく物事を始める人の多くは、既存の集団での立つ瀬や権力を失った人間が多かった。
有史以前であれば、世代を重ねて大きくなりすぎた集団は共通認識を維持することができず、分裂することを繰り返してきた。言語を用いない集団は150人程度が群れの限界であると言われていることからも想像に難くない。
その際、分裂した群れを率いる新しいリーダーは、既存の群れと生活圏を離すために家族や同調者を率いて移動をすることになる。これが開拓者の始まりであった。
時代が巡り、人々が言語を獲得し、文明を得て、農業を開始し、都市を築き、国家を形成した。それでもなお、他人同士の生活集団である以上は、権力争いや志向の違いから袂を分かつ場面は繰り返されてきた。
そして争いや諍いには勝敗がある。勝者はその場所での地位、権力、名声をさらに確たるものとし、敗者はその逆となる。そして敗者が選ぶ道は、その敗北者という社会的なレッテルを背負生きるのか、または、新天地へ旅立ち、自分が中心となって新しい社会を作るのかである。
今、世界人口は70億を越え、国民国家の隆盛は甚だしい。物的な、経済的な豊かさは歴史上最高と言っても過言ではない。
しかし、そのような世界情勢の中においても、世界中で文明の繁栄の象徴たる都市生活を捨て、片田舎に引っ越し、山を拓いて生きていこうとしている人たちがいる。「書く言う」私もどちらかというとそちらに足を突っ込んだ人間である。
彼らの多くは、何かしらの理由で都市での生活に限界を感じていた。例えば、集団での生活が苦手であったり、必要な嘘をつくことが嫌であったり、社会的な正しい価値観につかれていたりという共通する項目が見受けられる。「書く言う」私も、である。
私たちはもしかすると敗北者なのかもしれない。社会の主流から外れなければ生きにくく、主流で生きることのできる人たちには理解を示されない。巨大になりすぎた社会の中では押しつぶされてしまうのかもしれない。
しかし、私はそうは考えない。人類はいつだって、誰だって生きようとしてきた。その結果として勝者と敗者が生まれたとしても、敗者は新しい社会と価値観を持って新しい立場を開拓してきた歴史的事実がある。
主流から外れた私たちの生き方は、多くの人の賛同を得ることはないかもしれないが、同じように今の主流では生きにくさを感じている人にとっては依り代となりえるのだ。
私たちは松明を手に取らなければならない。それは身を焼き、命を削るかもしれないが、開拓者として新しい社会を築き、苦しむ同志を救うためには必要なことなのだ。
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