自転車好きになったのは、職場のせい(おかげさま?)

旅行

 私がどうしてここまで自転車を好きで、生活の中心に取り入れているのかという遍歴(ストーリー)を書いていこうと考えています。

就職前は自動車のほうが好きだった

1番手前がスバル・サンバー

 現職の就職前は、自動車のほうが愛着があり、大学時代に購入したサンバーを一生涯乗り続けたいと考えるくらいでした。今でもそのサンバーは小金湯基地での物資輸送に活躍していますが、以前と立ち位置が変わったことは書くまでもありません。

自動車が支える社会で僕らは育った

 私の生まれは新潟県上越市です。人口15万余の地方都市で、平成の大合併で形成された広大な面積から「人口密度が最も低い市」とも言われています。

 新潟県の私鉄線は90年代に壊滅し、JR線が南北東西に長く伸び、新幹線が二本通り、「鉄道は隣の市地域への移動に使う」という認識を持っている地域です。

 また、12月から2月くらいまで積雪が非常に多く、市街地における積雪量日本一を記録したこともあります。

 そういった環境ですので、天候に左右されず移動できる自家用車の普及甚だしく、一家に一台というより一人一台という環境が近いという社会でした。

 生まれて、首が据わるくらいの私が祖父の自動車の助手席に乗せられていた写真が出てくるくらい、私たちの生活というものは自動車が支えていました。

祖父から譲ってもらったサンバーと秋田で購入したサンバー

 秋田の大学へ進学した私は、現地で運転免許を取得し、実家にあった祖父のスバル・サンバーを譲り受けることになります。

 その時には祖父はすでに亡くなっていましたから形見です。そして祖父は私にとっては親のように育ててもらった人であるので、非常に愛着を持って乗っていました。

 秋田での生活では、農業や漁業のアルバイトが多かったので、サンバーは今と同様に非常に活躍しました。

 残念ながら雪道での事故で廃車にしてしまいましたが、次に購入したいと考えていたのも、岩手にいたサンバーでした。

 それだけに思い入れのある車種であり、なじんでいた自動車と共に過ごしていた生活がそこにあったのです。

特別職国家公務員で自動車に乗れない生活が続いた

 そのように、多くの地方に住む大人たちと同様に、自動車に乗ることが当たり前な生活を送っていた私でしたが大きな転機が訪れます。

 それは特別職国家公務員である現職に就いたことです。

集団生活、団体行動、階級社会、物理的な自由はほとんどない

 私の仕事は国家公務員の中でも特殊で、集団で指定された場所に居住する義務があり、階級が存在し団体での行動が基本という特徴があります。そのため物理的な自由は、階級の低いうちは特にほとんどありません。

私有車両の運転が制限された

 居住空間が制限され、私物の量も制限されているくらいですから、当然私有車両を職場でもあり居住地でもあるに持ってくるわけにはいきません。

 それ以前に、組織内の自動車教習所に通い大型自動車の免許を取得してから、官用車を2000km以上運転しないと、私有車両を運転することは許可されない所属部署ルールがありました。

 自動車教習所に通うめどが立たない数年間は、サンバーは実家にて眠り続けていました。実家では父の冬場の通勤で使われたり、荷物を運ぶのに活躍していたのでそれはそれでよかったのですが、年間に少なくない金額の保険料と税金が乗ってもいないのに出ていくので、何度手放そうかと考えたか分かりません。

一台の折り畳み自転車が人生を変える

 現職の中での転機は、いくつかあります。一つは「駅メモ」という位置情報ゲームを遊びながら旅行をしたこと、そしてもう一つは、一台の折り畳み自転車が与えられたことでした。

辞職した同期が自転車をくれた

 組織に入って2年が経過すると、任期の継続か辞職かを選ぶことになります。故郷高田で教育を受けた同期とは群馬で再開し、隣の部署で仲良くやっていましたが、私は継続し、彼は辞職を選びました。

 その際に譲り受けたのが、イオンモールで売っていた折り畳み自転車でした。車重14㎏、低速寄りの6段変速の装備された決してハイスペックではないその1台の自転車が私の人生を変えていくことになるのです。

数年ぶりの自転車が変えていく生活

 私と彼が過ごした群馬というのは、県の面積の7割以上が山地・丘陵地帯という、自転車には過酷な土地に思えました。

 私の住んでいた村と前橋市を往復するバスには、全国的にも珍しい自転車を車内に持ち込める制度があるくらいに、坂が多い地域でした。

 私には、この地域では自転車に乗ることは大変だという先入観が存在していました。

 しかし、彼が自転車を保有していたこと、乗っていたという事実から興味を持ち、そして自転車を譲ってもらったことから「とりあえず乗ってみるか」という気持ちになりました。

 初日、下り始めた自転車は今までに経験したことのない速度に加速しました。そのことも面白かったのですが、帰りの登りみちで私の考えは変わります。

 確かに想像していた通り、登りは大変でした。それでも歩くよりもずっと早く、官舎に帰ってくることができたのです。

 当時、もうからないバスは本数を減らし、値段を上げる一方でした。まるで自家用車のない人間には自由すら与えないと言わんばかりに。

 これほどまでに不自由を与えられてなお虐げられるのかという憤りがありました。

 しかし自転車があればバスの時間に縛られる必要はない。もっと遅くまで外出時間を延ばせる。

 「さらなる自由がそこにある」と私の価値観が変わっていったのです。

自転車が人生の一部となっていった

 その後、より軽く快適な自転車に買い替えたり、自転車を輪行してみたり、サイクルトレーラーで買い物に行ったりして生活は自転車を中心に回っていきました。

 コロナ禍で電車の移動が所属長に禁止されたときは反感の意も込めてe-bikeを導入して軽井沢や熱海まで自走したり、パワーを生かして群馬県内を人馬一体で走り回ったりもしていました。

 不自由だったのは私のとらえ方の問題だったと気づいたのです。自転車でも自由は手にできるし、場合によっては自動車以上に制約の少ない乗り物だと気づいていきました。

始まりはネガティブでも、結果がポジティブならよい

冬でも乗れるファットバイクと積載能力を大きく伸ばすトレーラー

 今となっては、自動車は無理に個人で持つ必要のない装備だと感じています。

 自動車にかかる、税金と運行にかかる燃料費用は少なくありません。人間一人が移動するのにたくさんの二酸化炭素を放出する環境負荷の比較的高い移動手段が自家用車だと考えるようになりました。

 人間一人が日常生活の移動の範囲で利用するのであれば、自転車で十分です。必要であれば他の交通機関に乗せて移動すれば、長距離の移動もできます。勿論急がないのならば自身の力で走ることも楽しめます。

 フロントガラスで良くも悪くも守られている自動車と違って、とても刺激的な乗り物です。気候の変化や気温の変化を肌身で感じることは体を活性化させます(今はまだガンには効かないが、やがて効くようになる)。

 都市部であればあるほど、自動車の利用を控えるべきで、公共交通機関と自転車の幅を大きく持つべきと考えるようになりました。

 確かに最初は組織からの圧迫から来るネガティブな理由から自転車に乗り始めましたが、今では積極的に自転車を中心とした都市交通を普及させていきたいと考えるようになりました。

 よいと思える考え方に共感できる人が増えて、その中でも実行できる人が増えれば社会は変わっていくと考えています。このようにポジティブな方向に自身の人生につなげることができてよかったと今では考えています。

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